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1人目の座敷童子だったのかもしれない

平成11年の11月に個人塾始めました。平成11年つうと西暦1999年、そうです、恐怖の大王が空から降ってきてアンゴルモアの大王蘇らせちゃうよって言われた年。でも、何事もなく2000年に移っていきました。同じ1999年に銀河鉄道999が臨時走行していたから、恐怖の大王は鉄道事故で死んだのかもしれない。

この鉄道事故という表現は、物理学的な事象のお子ちゃま的な換喩で、正しくは、1999年へと世界線に沿って流入してきたノストラダムスのエネルギー運動量束を、松本伯の想念が対称化したということなのでしょう。セルと悟空の壮絶なかめはめ波の撃ち合いみたいなものです。おっと、これもお子ちゃま換喩ですかね。物理とメタファーは相性がいいから、こういった修辞になるのもやむを得ない。

2000年の4月、その生徒は唐突にやってきました。フィギュアスケートの羽生君が、冬期オリンピックで1回目の金メダルをとったときの体をさらにカンナで削り込んだようなったようなひょろひょろボーイでした。顔色はこれぞ不健康色というような、今まさに嘔吐せんかのような、あるいは強烈な腹痛のため定まらぬ焦点で地獄を見ているような、そんな青白さです。

3度の食事では、常に息子が食べ残した料理を残らず平らげているのは疑いようのない事実である、豊満迫力系ぽっちゃりお母さんが、どんな塾かの俺の説明を聞いている斜め後ろで、白のトレーナーボーイは、時折り口をパクパクさせながら立っていました。

この口のパクパクの仕草はどうやら、あくびのようでした。顎の筋肉が弱すぎて口を大きく開けることができずに、水槽の中の酸欠状態の金魚みたいになっているのでした。

どうやってもこんな位置にでかい醤油の染みは付かないだろうという、茶色い染みが二の腕のあたりについたトレーナーをなぜか上品に着こなしているボーイは、母親と俺の会話が、異国語でなされているとも言わんばかりに、会話の全くどうでもいいようなところでびくんと鬼反応していました。俺が「以前はお茶屋さんが借りていて、せんべいなどもここで焼いて販売していました。なのでたのでほのかにお茶とせんべいの匂いが残っているんですよ」と言ったとき、(おまえ、その顎の力ではせんべいは無理だろ)ってのに、なぜかせんべいのワードに、上体をいきなりのけぞらせて驚いていました。

塾生としては外れ度100%だろうと私に確信させるのは、少年の目でした。ビー玉のほうがまだ知的な輝きを持っているんじゃね?というくらい、窓から教室内に差し込んだ陽光を反射させだけのガラス体の無機質さです。彼の両目には視線というものが宿っていませんでした。

2000年の4月時点の在塾生状況は、新中3が4人、新中2が8人でした。新中1では、この少年と母親の問い合わせが1人目でした。

少年の方は私の塾が気に入ったかどうかはさっぱりわかりませんが、母親は気に入ってくれたようで、入塾に至りました。この頃の俺塾は集団授業の形態だったので、俺は、胸の内では(このあと何人か入塾したら、この少年はきっと置物化するんだろうな)と思いつつも、母親にはにこやかな笑顔を見せて「入塾金は無料とさせていただきます」なんて言っていた。

最初の授業のとき、少年が小数や分数の計算を普通にこなしているので驚きました。英語でも、英単語に日本語の意味が書くのですが、たとえば「料理」とか「冷たい」とかいった漢字が普通に書けるのです。これにはかなり安心しました。集団授業のはずなのですが、生徒はこの少年1人でしたので、彼の勉強のペースや心情に寄り添いながら教えました。3回目か4回目のの通塾の頃から、にこにこと笑顔を見せるようにもなったし、虚ろなまなざしでもなくなり、目には知性が滲み出るようになりました。

寄り添っての指導がよかったのでしょう。中学校の1学期の中間試験では主要5教科いずれも90点以上になりました。

こうなると、俺の掌はくるりんぱです。ヒットポイントはとか3しかない、戦闘力もゴミカスなスライムがヒト化したような虚弱謎生命が、たくさんの美少女属性を獲得している可憐な少年に見えてきたのです。

激烈な腹痛で嘔吐と下痢をダブルでしでかす寸前の青白い顔は、薄幸で病弱な属性にも思え、授業中、たまに笑い顔を見せる以外はほとんど無表情無反応で、黙々と問題を解くさまは、俺の命令は何でも聞きそうな無抵抗従順なレア属性を感じさせました。

顔つきは端整で気品があり、髪は漆黒の巻き毛です。俺はLGBTには大変寛容ですが、「や ら な い か ?」要素は全くありません。それでも、(こいつ女だったら、かなりモテたんじゃね?)と思わせる、ゴリゴリの美少女属性でした。

案の定、俺の読みはあたったようです。1学期の期末試験でも、少年の5枚の答案用紙はどれも、色艶の良い滑らかな丸ばかりで、合計450点オーバーでした。中間試験のときには、少年の好成績に注目するクラスメイトはゼロのようでしたが、期末テストではたまたま発見され、これが彼を知る生徒らや家庭の間で大変な噂になりました。

小学校時代、普通に計算もでき、漢字も書ける小学生だったのですが、見た目はそうではありませんでした。可哀想に知能は遅滞し、水クラゲのように日々を漂い生きている小学生に、周囲からは見えていたようなのです。

(あの子であんなに成績が上がるんだから、成績がすでに上位のほうにあるうちの子の学力の伸びはものすごいことになる!)と親は考え、開塾間もない俺塾に15名が徒党を組んで入塾してきたのです。2週間から3週間の間にという流れではありません。わずか2日で15名が入塾したのです。正しくは、15名以上が問い合わせてきたのだけれど、クラス定員が16名なので問い合わせの16名以降は入塾を断りました。

「奇跡の塾」、そう呼ばれました。その後、「奇跡の塾」は「鬼籍の塾」となり、長い時間の経過後に、再び「奇跡の塾」と呼ばれる場面が出てくるのだけれど、それはまた後の話で。

2000年7月は、ポルナレフ状態でした。「俺は今、カリスマ塾をほんのちょっぴりだが体験した・・・いや、体験したというよりは全く理解を超えていたのだが・・・とんでもないお荷物中1生を拾ったと思ったらいつのまにか座敷童子に変わっていた・・・何を言っているのかわからねーと思うが、俺も何をされたのかわからなかった・・・超偶然とか超ホラッチョ話とかそんなチャチなものじゃ断じてねえ・・・もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ・・・」でした。

けれども、この座敷童子少年、11月には我が塾を去っていきました。虚弱で静かな性格なものですから、学校でいじめの対象になってしまったのです。登校拒否になり、家にこもって過ごすようになりました。塾に通う生徒らからはいじめられはしませんでしたが、いじめ被害を受ける子達に共通した、周囲への恥ずかしさ、「いじめられるのは自分に原因がある」と自己を責めてしまうことから生じる恥ずかしさのために、塾も退塾しました。

座敷童少年が去り、彼が俺塾にかけた魔法も解かれて、残りの中1生らは夢から覚めて1人、また1人と退塾していきました。

再びポルナレフ状態がやってきました。「俺は今、崩壊塾をほんのちょっぴりだが体験した・・・いや、体験したというよりは全く理解を超えていたのだが・・・池谷裕二を育てたと思ったらいつのまにか消えていた・・・何を言っているのかわからねーと思うが、俺も何をされたのかわからなかった・・・超絶下手くそな学習指導とか弩級の間抜けとかそんなチャチなものじゃ断じてねえ・・・もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ・・・」でした。

2004年のクリスマスイブの夜、最後の塾生である中1生が、2学期のあゆみで9教科オール1の大偉業を達成し、俺塾にやってきて、むせぶような、吠えるような、すすり泣くような、嗚咽を漏らすような、号泣のような、ありとあらゆる泣き方をみせながら、正負の数と文字式の計算問題を解いているうちに夜9時になり、授業が終わりました。そしてこれが、俺塾の第一部修了の夜でもありました。